誕生日の思い出と感謝

 

7月14日 68年前 私は生まれた

亡くなった叔母がよく言っていた

「千代ちゃんが生まれた日 よう覚え

とる 

学校から帰ると生まれとったんよ」

天井の上から紐を垂らしそれを義理姉

さんがひっぱって力を出して生んだん

よ そこン所は本当かなぁ

へぇ どこかのドラマのようだ。

あぶら汗を出してヒィーヒィー呻きな

がら紐をひっぱって渾身の力を出す様

子を思い出した笑

小学生の頃 7月の誕生日には汗を吹

き出しながら走って帰ったもんです

だってプレゼントが置いてあるから。

家は貧しく今のようなプレゼントでは

ないんですよ

私が一番よく覚えているのは 小学校

の5年か6年の事。

帰ると縁側に去年まで来ていたワンピ

ースが置いてあった。

それを母は上手にリフォームしてくれ

ていた。提灯袖のそれは大きくなり、

スカートは段々畑のように違う色が配

色してあった。いまならお・しゃ・れ

ーってとこでしょうね

それを急いで着て 大きな大きなおは

ぎ(今店で売っている3倍はあった)

をほおばる。そのおはぎにはほとんど

砂糖が入ってなかった。

砂糖は貴重品だったんでしょうね

つぶあんで色が今ほど黒くなくて薄い

おはぎいろ。それに砂糖を少しづつふ

りかけて食べました

さぁ それが終わると家からどのくら

いバスに乗ったか覚えていないが小童

というところへ行った覚えがある。

小童ひちのぎおんさん 店が出ていたのか

何を買ったのか 何にも記憶なし

どのようにしていったのか、誰と行っ

たのかも覚えていない

母は畑や町のミシン工場で働いていた

のでいなかったと思う。

だからひとりでバスに乗ったのかな?

ひとりでも今の様に危険でなかった。

のほほんとしたゆっくらとした時間が

流れていたのかなぁ 

あの頃は治安は大丈夫だったんだろう

なぁ……

なぜ毎年小童ひちだったのかも覚えてない

リフォーム上手の母さんは毛糸のセー

ターは上下反対にしてパンツになり何

でも変身させていたね。

私の初めての妊婦服はうまいことアッ

プリケがくまさんの足の裏に来るよう

にテディベア風になっていたりして…

思い出そうと思えばいくらでも出てく

る出てくる。一杯言いたい事があった

であろうがもう天国に行っちゃいまし

花の中で暮らしているでしょう。

生前そう言っていました。そちらの花

はどんな花ですか 

こちらはひまわりが一杯自分を主張し

ていますよ

 

こんな気持ちです  

親には感謝しています 

産んでもらって

何億個の精子と卵子があって人間になる

んだもの

奇跡だよね そう思うわ

元気で迎えられて皆におめでとうを戴き

幸せな日です

みなさん 有難うございました

chiyochansan について

夫ひとり 息子2人 孫4人 嫁ちゃん 2人
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