はりまや橋の続き(悲恋)No.3137

郵便保険の旅行で高知を訪ねた話の続き

はりまや橋は本当に残念なものでしたが私はバスに揺られながらも

気になったガイドさんの話

坊さんがかんざしを買う?を見た???

毛がないのに??何のため?彼女がいるの?

ネットで見てみました ネットは宝庫です

何でも載ってます ウソもあればまことも

この坊さんの名は純信というそうです 彼女はお馬

昔の女性の名前は気の毒な物があります(-_-;)

現にこうして文字入力していても お馬 と言えば

が出て来ますからぁ(-_-;) 

悲恋の話 

文政2年(1819年)、土佐国高岡郡戸波郷市野々村で佐川家家臣の嫡男として生まれた純信(じゅんしん)は、9歳で京都に上って修行に励み、帰国して五台山竹林寺脇坊の住職をしていた頃、僧侶の身でありながら、鋳掛屋(鋳造された鍋、釜などの鋳物製品の修理・修繕を行う職業)の娘で20歳年下のお馬と禁断の恋に陥ります。
純信37歳、お馬17歳。僧侶は妻帯が禁止されていましたから、安政2年(1855年)の5月の深夜、純信とお馬は駆け落ちをして、笹口番所の裏道から阿波(現・徳島県)に入り、讃岐(現・香川県)の琴平の旅籠に泊まっていたところを、関所破りで捕まります。
はりまや橋でかんざしを買った坊さんは、実は純信ではなく、竹林寺の慶
全という若い修行僧だったのです。
最初は、お馬と良い仲だったのこの慶全でした。ところが、お馬は、慶全の師にあたる住職の純信に次第に好意を持つようになり、慶全から次第に気持ちが離れて行きました。純信もまんざらでもありませんでした。
慶全は、お馬の心をなんとか取り戻したい思い、播磨屋橋の小間物屋・橘屋で珊瑚のかんざしを買い求め、お馬に贈りましたが、純信への思いが募るお馬から袖にされます。失恋した慶全は、お馬と純信の仲を裂こうと思い、純信が播磨屋橋でかんざしを買い、お馬に贈ったと嘘の申し立てをしました。
その話は、たちまち⾼知城下で広く噂となり、純信とお⾺は住み難くなり、駆け落ちに及んだのでした。琴平の旅籠で捕まった純信とお⾺は、安政2年
(1855年)9⽉、⾼知城下の晒し場で⾯晒しの刑を受け、国外追放になります。
その後、純信は、伊予国宇摩郡川之江(現・四国中央市)の川村⻲吉の庇護のもと寺⼦屋で教えていましたが、⻲吉の死後にはその地を離れ、晩年は浮東川(現・愛媛県久万⾼原町)で、慶翁徳念和尚(俗名・中⽥与吉)を名乗って⽣活し、後に結婚し、⼀男⼀⼥をもうけ、明治21年に69歳で亡くなりました。
お⾺は安⽥村(現・⾼知県安芸郡)の旅館に奉公していましたが、追ってきた純信とのことが原因で須崎(現・⾼知県須崎市)へ追われ、庄屋預りの⾝になります。その後、⼤⼯の寺崎⽶之助と結婚。
⼦供に恵まれ、⻑男の徳太郎が陸軍御⽤⼤⼯になったことを機に⼀家で上京
し、滝野川(現・東京都北区)に移り住み、明治36年に66歳でな亡くなりました。

という事らしいです 今ではお坊さんも結婚も出来るし酒も飲める

今の時代だったら良かったのにね まっ これで私の気になる部分は

解決したという事です

 

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夫ひとり 息子2人 孫4人 嫁ちゃん 2人
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